テーマ:霧のセイレーン

霧のセイレーン(24)

 あっという間に森の小道との合流点へ達し、なお駆けたがる愛馬に、彼はそう声をかけながら手綱を引き絞った。畑との境界にもなっている潅木の茂みをゆっくりと回らせ、肩越しに庵のほうを振り返ると、ゲルダは名残りでも惜しむように木戸の前に立っている。しかもにこやかに手を振ってみせたので、デーモンは思わず小首を傾げた。 「はて、ありゃ一体どういう…
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霧のセイレーン(23)

 やれやれ、やはりダメだったか。色気なんか振りまいても、あたしにそんな手は通じないよという目で見られ、デーモンは仕方なしに苦笑した。それからゲルダが指差した場所へ視線を向け、温くなり始めた微風にその黒髪をなぶらせて、ちょっと心許なげに吐息をついた。体が欲しているのは、間違いないんだけどな。俺の心というやつ・・・あっちの花もとびきり可愛い…
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霧のセイレーン(22)

「おや、あたしがいつそんな事を云ったんだい?確か約束はしなかったと思うけどね。きっとあんたの思い違いだろう」 「呆れたもんだ。魔女ともあろう者がしれっとした顔で、よくまあそんな見え透いた事を・・・。あんた、俺よりよほど性格が悪いな?」 「人聞きの悪い事をお云いでないよ。他に経験もない無垢な娘を確信犯で孕ませるような男に、あたしの性格…
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霧のセイレーン(21)

 半ばあたしの答えを、予期しているんだねと魔女は見て取った。おそらく鈍感というより、この男は霊気や術の影響を受けにくい、稀れな資質の持ち主なのだろう。だとしたらこれも一つの、希望の徴しと云えるのではないか?予見に顕れたあの、陽射しに透ける金色の髪をした若者がそうであるように。それから今はまだ隠されている、かすかに潮の香漂う心地よい風・・…
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霧のセイレーン(20)

「彼はあたしが振り返ると、現実にはあんたたちがいたわけだが・・・親しみのこもる笑顔でこう云った。「僕は父の使いで来ました、デーモン・ブラッドショーを覚えておいでですか?」とね」 「俺が?」なぜか衝撃を受けたように目を見開き、考え込む態で唇を引き結ぶ。「するとエレノアは、いずれ俺の妻に?」 「そう考えるのが一番妥当な線だろうね。あの娘…
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霧のセイレーン(19)

「一を聞いて十を知り、絡まりあった糸にも慌てず騒がず、徒らに疑って時を失う愚も犯さない。その若さで一体、どんな人生を過ごして来たものやら。・・・ウォレル将軍は評判通りの名将らしいね?あんたのような男を取り立て、その才能を如何なく発揮させているとあれば」 「まァね、滅多にいない御仁さ。本物の魔女がそういないのとご同様。だから俺も、あんた…
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霧のセイレーン(18)

 これでも傷心しかかっている男に、何て容赦のない言葉を吐く婆さんだ。デーモンは微苦笑しながらも、質問の意味をよくよく反芻した。 「そうだな、せいぜい足掻いてみようと思ってるよ。・・・いつか他に、結婚したい女ができるまではね。むろんその前にエレノアが、あらゆる注釈を片っ端から削除してしまう可能性だってあるわけだ。・・・まさかと思うが、婆…
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霧のセイレーン(17)

 勿論ですとも。そういう事なら、彼以上の適任はいませんよ。黒馬が鼻孔を広げてヒヒンと嘶き、エレノアもそれを肯定の印と受け取ったものの、結局のところ、自ら云い出す踏ん切りはつかなかったらしい。それもこれもある意味では、うちのご主人の自業自得と云えるが。  最後に旅支度一式が詰め込まれた鞍袋を留めると、デーモンは愛馬を、早くも眩しい陽射し…
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霧のセイレーン(16)

 ここよりずっと北の、空気に潮の香りと、まとわりつくような湿気が混じる土地で、思いがけず二ヶ月近くもある陰気な館に閉じ込められていたときの事だ。夜毎湖の底から響くこの世ならぬ歌声や、それに引き寄せられて来る影のない気配・・・鼻のもげそうな饐えた匂いと、毛も逆立つほどの冷気を放ちながら、あたりをうろつくおぞましい邪気に怯え、厩舎の馬は皆気…
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霧のセイレーン(15)

 デーモンが家畜小屋の扉を開けたとき、三白流星の黒馬は驢馬のメイベルと一緒に、飼い葉桶のまぐさをあらかた食べ終えたところだった。その姿より嗅ぎ慣れた匂いに(主人は逆光を背に入って来た)、刷毛で描いたような白い毛の混じった鼻面を上げ、きれいに梳られた尻尾をさっと振る。彼は愛馬の顎を優しく撫でてやり、面懸だけつけて囲いの外へ連れ出した。普段…
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霧のセイレーン(14)

 呟きながら彼女は、頭の落ち着きがいい場所を探して身じろぎした。栗色のほつれ髪が頬をくすぐり、その優しい息遣いが鎖骨にかかる。彼の胸もとへ横顔を埋めて納まると、エレノアは心地よい揺れに身を任せて瞼を閉じた。  どんな事があろうと後悔しない、か。俺がいつか、ゲルダ婆さんを死に追いやる決断をしても?あんたはその言葉を呪わずに済むだろうか。…
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霧のセイレーン(13)

 若い二人を乗せた馬が木立の陰に見えなくなった後も、ゲルダはしばらくの間、後ろに丸く結い上げた白髪をほつれさせ、風にスカートの裾を閃かせながら立っていた。コーギーのフェイフェイがその足もとへやって来て、ワンと一声吠え立てる。ちょこんと座ったまま、主人を見上げて問いかける瞳に、魔女は悪戯っぽく目を瞠った。旅立ちには絶好の日和だと思っていた…
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霧のセイレーン(12)

「まったく嫌味ったらしい色男だね。吹き出しちまうじゃないか」  実際堪え切れずに、魔女はプッと口許を覆った。身を震わせながら笑い出すのと顔を突き合わせ、その肩を叩いて、デーモンもまたおかしそうに笑った。どちらからともなくゲラゲラと大声で笑うのを、馬上のエレノアが半ば驚き、半ば呆れたように見下ろす。二人が何をコソコソ話しているのか、彼女…
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霧のセイレーン(11)

「暁の空に明星を見つけ、風がカサコソと薬草の束を揺らすたびに」  何よりの言葉で旅立つ娘を祝福し、魔女はその手を、心得たように差し出すデーモンの手に委ねた。微笑みかける男を見つめて、エレノアが思い切るように一歩踏み出した。重ね合わせた手に誘われるまま、大人しく待つ黒馬のもとへ。片手で鞍の前輪につかまり、彼の押さえてくれた鐙に足をかける…
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霧のセイレーン(10)

 考えを云い当ててウィンクすると、彼女の背後に何を見つけたのか、デーモンは両肩に置いた手で許嫁となった娘を振り向かせた。庵へと続く赤土の道の半ばあたりに、使い古しのエプロンをかけたゲルダの姿。白い雲のたなびく澄んだ青空の下、眩いばかりの陽射しが小麦の穂とトウモロコシの、ところどころ茶色くなった葉に輝く中を、いつものきびきびした足取りでこ…
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霧のセイレーン(9)

「いずれ人生をともにするなら、きっと他の誰より・・・孤児で娼婦たちの養い子、自分以外何一つ持たない男がいいわ。エレノア・ブラッドショーとして生きる事が、自分の心に適う選択だと思えるから。少なくともわたし・・・夫は自らの器量だけを頼りに生きてきた、誰からも軽蔑される謂われはないって、怒る事ならできるわね?」 「ああ、エレノア。まったく、…
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霧のセイレーン(8)

「うん。・・・あのな、もう一度求婚してもいいか?」  ああわたし、本当にこの人じゃなきゃダメだわ。息苦しいような胸の疼きを覚え、エレノアは泣き出しそうになるのを堪えながら、彼の肩に面を伏せたまま頷いた。デーモンは珍しく、ちょっと考えてから云った。 「あんたにはたぶん、色々苦労をかけると思う。軍人だから家を空ける事も多いし・・・幸い今…
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霧のセイレーン(7)

 頑固に弱みを見せようとしないこの娘が、なぜあんなふうに狂おしく泣いたのか。その点を頼みにできるほど彼は自惚れていなかったし、自分の望みならすでに、しつこいほど伝えてあった。エレノアは答える代わり、その腕にすがって立ち上がろうとした。力が入らないようによろめくのを抱き止め、二人の視線が絡み合ったときだ。両手で頬を挟まれたと思うと、デーモ…
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霧のセイレーン(6)

 気づいたときは三白流星の黒馬に跨ったデーモンが、眩いばかりの青空を背景に見下ろしていた。光線の加減で濃い藍色にも見える、複雑な輝きを映す黒い瞳。その柔らかな黒髪は小麦畑を騒がせて吹く風に踊り、白いシャツの胸もとがわずかに波打っている。どうやら彼女の時間は、彼が近づくまでを跳び越え、その後引き伸ばされてしまったようだ。幻影でも見るように…
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霧のセイレーン(5)

 木戸を開けようと立ち止まり、エレノアはようやく、スカートの裏地がまとわりつくせいで、足を運びにくいのだと気づいた。低い木戸から庭の外へ出ると、踝の上まで裾を持ち上げて再び走り出す。編んだ長い髪を背中になびかせ、まっすぐ伸びた赤土の道を・・・左手に広がる金色の小麦畑と、右手のトウモロコシ畑を後ろへ置き去りにしながら。小麦の穂が風に波打つ…
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霧のセイレーン(4)

「彼に家庭を与えておやり、エレノア。あんたにもその温もりが必要だ。たった十五で愛する両親を、ほとんど一度に失うなんて・・・辛過ぎる経験をしたんだからね。デーモンのために流す、この涙があれば充分だろうに。一体何を怖がる必要があるんだい?」  ガタンと椅子を揺らして、エレノアが打たれたように立ち上がった。大きく瞠った瞳が一瞬、心の裡から射…
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霧のセイレーン(3)

「伯父の家で暮らし始めてから、わたし・・・近くに男の人がいると、いつも落ち着かない気分になったの。男というだけで否応なしに、存在を意識させられるのが嫌で仕方なかった。何一つ含むところなどなく、わたしを公平に見てくれる人でもよ。逆にバカな事を期待しそうで、自分の浅ましさに腹が立って・・・。それがデーモンの前だと、不思議なくらい楽に呼吸でき…
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霧のセイレーン(2)

 それを聞くとエレノアは、ふいに顔を覆ってわっと泣き出した。ゲルダが自分のために、心を痛めているとわかったからだ。逃げ場を求めて押しかけながら、差し出された手の温かさにも疑いの目を向ける、こんな愚かな娘のために・・・。魔女は目を伏せたきり、彼女が息もままならないように喘ぎ、激しく身を震わせながら泣きじゃくるに任せた。 「わたし、わから…
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霧のセイレーン(1)

 見送りに出ていた老婆が、薬草の束を手に作業小屋へ入って来た。エレノアは怖い顔でひたすら糸を紡ぎ、視線を上げようともしない。話しかけられる事を拒絶するように、青ざめた唇が固く引き結ばれている。ゲルダは椅子に腰かけると、エプロンの上に半ば乾燥したセージを広げ、天井から吊り下げるために紐で括り始めた。しばらくの間薬草のカサコソいう音と、糸繰…
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